江戸幕府は、1858年にアメリカと貿易開始を約束する日米修好通商条約を結び、更に同内容の条約をイギリス・フランス・オランダ・ロシアとも結ぶこととなりました。これにより日本の鎖国は事実上解かれ、翌年の1859年より5つの港を開港する運びとなりました。
その5つの港とは神奈川、長崎、函館、新潟、兵庫。
ただし、実際には神奈川ではなく、その横の横浜が開港されております。しかし、神奈川にあった本覚寺も横浜開港の影響を大いに受けました。
神奈川宿の寺院の多くは各国の領事館として接収されていき、本覚寺はアメリカの領事館となりました。
アメリカは神奈川奉行が横浜に用意した領事館を断り、渡船場が近く湊が見渡せる高台の本覚寺を領事館に希望したと言われております。
横浜開港の日は、旧暦の1859年7月1日(新暦6月2日)ですが、本覚寺が正式に領事館に接収された日は開港より3日後、7月4日(新暦6月5日)でした。
アメリカにとっては、アメリカの独立記念日であるこの日が、正式に港を開くと決めた日でした。当日は、墓地の大木に星条旗を掲げ、合衆国国家を合唱し、シャンペンを抜き、お祝いをしたと言われております。
この事は、明治41年に刊行された、物事の起源を紹介している「明治事物起源」において、「横浜開港記念日の始め」とされています。
以上の様子は領事館通訳ジョセフ・ヒコの自伝に子細に書かれていることですので、以下掲載させて頂きます。
1859年7月4日
この日はいよいよ上陸して、わが公館を収め、正式に貿易港を開くと決められた日である。
夜は快晴に明けそめた。
早朝、湾内を林立するすべてのマストに、にぎにぎしく旗がかかげられていた。十時ごろ、われわれは神奈川側に上陸し、本覚寺まで歩いていった。寺の墓地に大木があったので、そのてっぺんの枝に棒を結びつけて旗ざおにした。正午すこし前に、アメリカ公使ハリス、領事ドール、ミシシッピー号艦長ならびに士官ヴァン・リードと私はどっとこの墓地に乗り込んだ。十二時丁度、この旗ざおにアメリカの国旗を高くかかげた。
そうしてシャンペンをぬき、合衆国国家を合唱して、「われらの繁栄のために、星条旗よ永遠なれ」と乾盃した。この地に外国の国旗のひるがえったのは史上はじめてのことであった。
ジョセフ・ヒコ
ジョセフ・ヒコの「アメリカ彦蔵自伝」より
尚、ジョセフ・ヒコの日記中にある、国旗の旗ざおとした墓地の大木は、松の木と言われておりますが、今は残念ながら現存はしておりません。
日記の著者ジョセフ・ヒコは、本名は彦蔵(彦太郎とも)と言い、13歳の時に、江戸見物の帰りに乗った船が遠州灘で遭難し、漂流の末にアメリカ船に助けられたという人物です。
その後、彦蔵はアメリカで教育を受け、市民権を得てジョセフ・ヒコと名乗り、日本に通訳として帰ってきたという訳です。
領事館の接収期間は約3年程で、後に横浜へ移動となるその間、寺僧は退去させられ、御本尊さまは板囲いで覆われ、一般人の立ち入りは禁止されていたとも云われています。
また、アメリカ側は本覚寺を領事館とするにあたって、一ヶ月15両(10両とも)の賃貸料を支払うことになっておりましたが、それがなかなか支払われず、寺側が「ことのほか迷惑」しているという噂もあったようです。
当時の領事館員達は、当時日本には存在していなかった西洋塗装法(ペンキ)で、建物の彫刻等を塗装していきました。
そのほとんどは戦火で焼失をしましたが、山門と鐘楼堂だけは戦火を免れ、今でも唐獅子や蛙股などに黒や赤、緑、白などのペンキ塗装の跡を見ることが出来ます。
この領事館員達がペンキ塗装を施した山門は、日本で初めてペンキが塗られた純日本建築物であると言われており、大変貴重な建築物として考えられております。
現在では、そのような縁から全国塗装業者組合建立の合同慰霊碑が、山門のすぐ近くに建てられ、毎年7月には全国塗装業者組合の合同慰霊祭も営まれております。
1862年、薩摩藩の大名行列を横切ったイギリス人が殺傷されたという、かの「生麦事件」が近所の生麦村でおこります。
薩摩藩士に斬られ負傷したイギリス人マーシャルとクラーク2人は本覚寺へ逃げ込み、アメリカ人医師のヘボン博士から手当を受けたとも云われています。
山門の左脇に、お寺には少し似つかわしくない月桂樹という西洋の木が一本植えられています。
これはアメリカ領事館時代に領事館員達が植えた月桂樹だとも言われております。
ただし、この月桂樹は1945年の横浜大空襲により幹を焼失しました。しかし、生き残った根から芽が出、再び山門の脇でその姿を表わしていると云われている訳です。